私は旭川で5年間学生生活を送っていました。ただ、なんとなく毎日が過ぎていき、そのときはそれほど充実しているとは思いませんでしたが、今振り返ると、なかなか面白い日々だったと思います。
部活動であるバレーボールとアルバイトを両立させ、時には合コンに行ったりして仲間たちと夜な夜な酒を飲んだり、楽しく暮らしていました。
最終学年の5年に進み、部活動も一段落したところで、本格的にアルバイトを始めることにしました。
さて、私が働き始めたのはホテルのラウンジでした。カクテルやウイスキーをメインに扱うお店で、15階建てのホテル最上階にあり、旭川の夜景が一望できました。いつもジャズのBGMが流れ、時にはピアノの生演奏もある、少し気取った雰囲気の店でした。
私はその店でウエイターで、客の注文を聞く仕事を担当していました。ホールには私の他に、ブロンドが美しいシャーロットというオーストラリア人女性が働いており、カウンターではバーテンダーの相沢さんがシェイカーを振ってカクテルを作っていました。厨房には小柄でウエイトレスも兼ねる望月さんという女性がいました。
接客のアルバイトはいくつか経験していましたが、この店の雰囲気はこれまでとは全く違い、慣れるまでに時間がかかりました。
この店は雰囲気を大切にしており、身だしなみはもちろん、言葉遣いや待機中の姿勢まで厳しくチェックされました。例えば、自分のことを「俺」と言うのではなく「私」か「僕」と言うこと。これはお客さんがいるかいないかに関係なく徹底されていました。また、同僚を呼ぶときは必ず「くん」や「さん」を付けること、待機中に壁にもたれかからないこと、など細かなルールが多く、慣れるまでは気を抜くと注意されることがしばしばありました。
特に、お客さんがいないときに同僚と世間話をしていても、お客さんが来た瞬間に「○○君、これお願いします」と急に丁寧語に切り替えるのが苦手で、最初は恥ずかしく感じていました。それでも、3ヶ月も経つと自然に順応し、お客さんと接することが楽しくなりました。
店の客層は、店の雰囲気からして年配層が多く、若い客は滅多に来ることはありませ
んでした。全体的に単価が高めに設定されていたことも一因です。特に、ホテルという商売柄、出張で旭川に訪れた宿泊客が夜に飲みに来ることが多く、男性客がほとんどでした。
時には外国人の宿泊客が店に訪れることもあり、そんなときはいつも私が接客を任され、片言の英語で対応することになりました。
客の中には、店の従業員であるシャーロットや望月さんを目当てに来る人も少なくありませんでした。
2人とも美人で愛嬌があり、客にはとても人気がありました。特にシャーロットはブロンドで背が高く、スタイルも抜群だったため、男性客はいつも羨望のまなざしでシャーロットを眺めていたように思います。
この店は、女性従業員が客の横に座って接客するようなスナックのようなスタイルではなかったため、話をする機会は注文を聞くときや飲み物を運ぶときだけでした。そのためか、シャーロットが出番のときはオーダーが次々と入り、いつもより忙しかったように思います。そういう意味では、彼女は売り上げに大いに貢献していたと言えるでしょう。
ある客は、注文するときに片言の英語でシャーロットに話しかけ、口説こうとする人もいました。また、別の客は来るたびにチップを渡して気を引こうとしたり、私が代わりに注文を取りに行ったときには、露骨に嫌な態度をとることもありました。
シャーロットは注文を取るくらいの日本語は理解できたのですが、英語で話しかけてくる客には英語で答えていました。ただし、英語で話しかけてくる客のほとんどは流暢に話せるわけではなく、客が帰った後にシャーロットはいつも「めちゃくちゃな英語だったわ」と苦笑いしていました。
ある日、いつものように店に出ているとき、シャーロットが客からのし袋を受け取りました。チップを渡す際の方法としてそれほど珍しいことではなかったので、「良かったね」と声をかけました。
すると彼女はにっこりと無邪気に笑い、急に私の腕をつかんでレジ横、ちょうど客や他の従業員から見えない死角に私を引っ張っていきました。そして、のし袋を素早く開け、中に入っていた3枚の夏目さん(千円札)を取り出し、その中の1枚を私に差し出したのです。
「アゲル」
「いらないよ、それはシャーロットがもらったんだから…」
私が言い終わる前に、彼女は私の手のひらに千円札を握らせ、「アゲル」と再び無邪気に笑って言いました。
「へえ、こういうとき英語ではなんて言えばいいの?」
「フフフ、‘thank you’デショ。」
「サンキュ。」
私たちはまた何事もなかったかのように仕事場に戻りました。シャーロットと私は普段から仲が良く、時間があるときはいつもおしゃべりをしていました。彼女は日本の専門学校に留学しており、学校での出来事や家族のこと、東京にいる恋人のことなど、気さくに何でも話してくれました。私も英語を教えてもらったりしていて、教えてもらった英語をすぐに使うと、彼女はいつも笑っていました。私の発音が変なのか、それともすぐに使いたがる私の姿が滑稽に映ったのか分かりません。ただ、彼女は「あなたは面白い人ね」と言うだけで、その理由は教えてくれませんでした。
さて、話を戻します。しばらくして、私がカウンターの客が帰った後に席を片付けていると、真後ろで私を呼ぶ声がしました。先ほどシャーロットにチップを渡した客でした。
「兄ちゃん、あの娘、あんたのコレか?」
そう言って小指を立て、小声で尋ねてきました。どうやらシャーロットと私が何か特別な関係にあるのかを聞きたいのでしょう。私はその客をもう一度よく見てみました。見た目は50代半ばくらい。紺色のジャケットに茶色のスラックスを身に着けた小柄で小太りの男性です。こんな店で飲むくらいですから、きっとお金は持っているのでしょう。会社の重役か、それとも単身出張中のサラリーマンかな、と勝手に想像していました。
「仲はいいですけどね。」
友達ですよ、と目を合わせずにさらりと答えました。
その客はまだ何か言いたそうな様子でしたが、私はテーブルを拭き終えると、さっさとレジの方へ戻りました。特別忙しかったわけではありませんが、一人で飲みに来ている客の長話に付き合うほど、私は愛想が良いタイプではなかったので、こういうときはいつも素っ気ない態度でした。
後になって思えば、この客はずいぶんそわそわしていて落ち着きがない様子でした。しばらくしてまたその客がシャーロットを呼び、何か話をしているのが見えました。私はルームサービスやレジ業務で忙しく、特に気にしていなかったため、詳しい状況は分かりませんでした。
しかし、少し後にシャーロットが早足で戻ってきて、私の袖をつかみ、先ほどの客から隠れるように私の後ろに身を隠しました。
彼女は何か怯えているようにも見えました。どうしたのか尋ねても、なかなか答えません。きっと日本語がうまく通じなかったのか、あるいは何かからかわれて驚いているのだろうと思い、
「私が代わりに話を聞いてこようか?」
と提案しました。しかし、彼女は無言のまま首を横に振り、私の袖をつかんだまま離そうとはしませんでした。
……うーん、困ったな。どうしたんだろう。
「おしり?ヒップ?ナーデナデされたー?」
私は自分のお尻をさすりながら冗談半分に聞きました。
「バカ!!、チガウ!!、アホ!!」
ははは、アホとまで言われてしまいました。
ほぼ同時に、先ほどの客が手を挙げて店員を呼んでいるのが見えました。ずっとこちらを見ているようで、今のやりとりも見られていたのかもしれません。
「行かなきゃ。」
私はゆっくりとシャーロットの手を離し、客の方へ向かいました。客は私が近づくと、こう言いました。
「うーんと、あれだ……チェックするかな、お会計、おあいそ、うん……。」
先ほどシャーロットとの間で何があったのか気にはなりましたが、特に変わった様子もなかったため、そのまま流すことにしました。
「かしこまりました。」
そう伝え、レジに向かおうとすると、また呼び止められました。
「おおっと、それと……ここは部屋付けできるのか?鍵はここにある。ルームナンバー1123だ。」
このラウンジはホテル内の施設なので、宿泊客であれば飲食代をチェックアウト時にまとめて精算することができます。そのため、レジはホテルのシステムとオンラインでつながっており、操作がやや複雑でした。
「ルームナンバー1123ですね?それではお部屋付けにしておきます。」
そう告げてレジを操作し、確認のサインをもらいにもう一度席に戻ったときのことです。客は差し出した私の腕をつかみ、小声で話しかけてきました。
「頼みがある。」
突然のことで驚いている私に構わず、客は早口で続けました。
「ルームナンバー1123だ。7万までなら出す。あんたの取り分は勝手に決めていい。あの娘を……。」
シャーロットを部屋に呼べ、と言ってきました。
意味が飲み込めず、私はきょとんとして客を見つめました。しかし、客は真剣な眼差しで私を睨みつけてきます。掴んだ腕の力も緩むどころか、ますます強くなっているようでした。
「ちょ、ちょっとお待ちください。」
私は掴まれた腕を振りほどき、冷静になるよう促しました。
この状況を理解するのに少し時間がかかりました。シャーロットが先ほど怯えていたのは、このことが原因だったのでしょうか?この客と話をしていた時から、明らかにシャーロットの様子が変でした。「部屋に来ないか?」と直接言われ、それに怯えているのかもしれません。振り返ると、シャーロットも心配そうな顔でこちらを見ていました。
さらに、この客はチップをシャーロットに渡しています。受け取ってしまった以上、素っ気なくするわけにもいかないと感じているのかもしれません。しかし、私もその中の千円をもらったからと言うわけではありませんが、それとこれとは全く違う話です。断っているはずなのに、今度は間接的に私を通じて言い寄ってくるなんて、本人の気持ちを全く考えていない無神経なやり方です。普段は温厚な私も、このときはさすがに憤りを感じました。
こういう人には毅然とした態度で、はっきりと断るべきだと思いました。
…とはいえ、実際に本人を目の前にすると、なかなか言い出せません。それほど真剣で、どこか怖いくらいの目つきで私を見つめていたのです。
「あの、えーと、当店ではそういったサービスは行っておりません。」
しどろもどろで告げたこの言葉を、今思うとなんて間抜けな答えだったのだろうと思います。そんなサービスをやっている店があるなら教えて欲しいくらいです。
ともかく、客はそそくさと荷物をまとめ、早足で帰っていきました。
その客をエレベーターに乗るまで見送った後、私はシャーロットと顔を見合わせ、ふーっと息をつきました。そして、なんだか笑いがこみ上げてきました。シャーロットを見ると、彼女も笑っています。
「でも、ホントは残念だったんじゃない?ニヒヒ…」
先ほどの緊張が解けたのか、冗談を言っても怒る様子はありません。私は調子に乗って言いました。
「あれ?何か忘れてないかな?こういうとき、英語でなんて言うんだっけ?ほら、さっき教えてくれたじゃない。」
「???」
「うーん、感謝するときに言う言葉だよ。」
「…」
「なになに?聞こえないなぁ。」
意地悪くとぼける私を、シャーロットは照れくさそうに見ていました。そのやり取りをしている間に、遠くでエレベーターが開く音がしました。新しいお客さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えます。のんびりムードも、ここでおしまいです。
私は背筋を伸ばし、入口付近へ向かおうとしました。
その瞬間――シャーロットが立ち去ろうとする私の腕をつかみ、顔を近づけてきました。なにがなんだかわからずにいると、一瞬頬に柔らかい感触を感じました。そして、彼女はにっこり笑って言いました。
「Thank you.」
私はしばし呆然と立ち尽くしましたが、はっと我に返り、なんとか取り繕おうとしました。
「あっ、えっと…いや、こういうとき英語ではなんて答えれば…」
お客さんがすぐ近くまで迫ってきていることなど、すっかり忘れてしまったのはいうまでもありません。